三河の人は知っている長篠の戦いと忠臣蔵の真実
美談の裏には意図がある。
■忠臣蔵が美化される理由
忠臣蔵が美化されている理由は簡単です。体制側に都合がいいからです。一言で言えば、「どんなバカ殿にも忠義を尽くせ」です。
忠臣という行為には、バカ殿が不可欠だからです。名君にはだれでも従います。暗君(バカ殿)に従うから、忠臣なのです。江戸から敗戦まで、日本2大忠臣は大石内蔵助と楠木正成でした。彼らが仕えた浅野内匠頭や後醍醐天皇は、バカ殿です。忠臣と暗君は表裏一体なのです。
一方、戦国の武士は平気で主君を変えます。この辺りは、高橋昌明『武士の日本史』(岩波新書、2018年)が参考になります。
高橋氏は、正徳2(1712)年に出版された戦国時代の中国地方を主な舞台とする戦記物『陰徳太平記』が出典の「武士は渡りもの」ということわざを紹介し、《一生に七回も主人を替えた「渡り奉公人」の代表格といえる武将》である藤堂高虎を紹介し、その藤堂を主人とした、藤堂に輪をかけて渡り癖の強かった「渡辺勘兵衛了(さとる)」というマイナーな武将を紹介しています。さらには、《近世前期になっても、雑兵のレベルではあるが、「おれは主人を四、五〇人も取ってみたが、奉公先によって考えが違うものだ」(『雑兵物語』上)という声まである》と述べています。
また、在野の研究者・鈴木眞哉氏は『戦国時代の大誤解』(PHP新書、2007年)の中で、信長から数えて9人主君を替えた九鬼広隆という伊勢生まれの武将を紹介していました。
美談の裏には、意図があるものなのです。
通説では、長篠の戦いで家康は信長に頭が上がらなくなります。信長の版図は20数か国に及びますから、絶大です。もはや対等の同盟関係などと言えない力関係になりました。
結局、徳川は存在そのものが「信長の盾」であり、小競り合いでは負けっぱなしなのです。その間に信長は勢力を膨張させていったのですから、差がつくのは当然です。
〈『プロパガンダで読み解く日本の真実』より構成〉
- 1
- 2